例えば、今わたしが死ぬとしたら。
 走馬灯というものが、本当に現れるのだろうか?

 記憶とは、自我の蓄えのようなものでもある。
『あの時、こうしたら、こんなことが起こった』という経験が積み重なり、ならばどうすればいいのか、どんな結果が望ましいのかを導き出すことができるようになる。知らなかったことを知り、視野を拡げ、少しずつ進むべき道が見えてくる。時として経験は行動を阻害するが、それは誤った方向へ進むことのないように、流されることのないようにと括りつけられた枷である。子供のうちはそれがない。自分が世界の中心であると無邪気に信じられる。だからこそ、大人のつく対外的な嘘というものに敏感だ。
 然るに、"彼女"──エリカと名付けられた、記憶喪失の異邦人はどうか。
 エリカは子供ほどに無知ではない。一般常識や、他人に対するそれなりの距離の取り方、仮面を被る必要性、そういった処世術は心得ている。
 だが、今までにそれを獲得する原因であったはずの、記憶という蓄えがない。何処で生まれ、何処で生き、何を見て、何を思ったのか。
 どうして今、自分は自分として存在しているのか。そこに至る過程が失われ、ただ穴だらけの結果だけが残されて、どうして先に進めよう。
 進むということは、積み重ねるということだ。上に何かを乗せていくには、基盤がしっかりとしていなければならない。不安定な足場で無理をしても、いずれ遠からず崩れ落ちるだけ。
 本能的にそれを知っているからこそ、今のエリカは自力で動くことが叶わない。誰かに支えられ、誰かに導かれて、言われるままに動くことでしか安定できないのだ。


 それは、エリカの名付け親たるラピスラズリにしても、無関係ではなかった。
 ラピスは元々イリーガルな実験体であり、血縁上にも戸籍上にも親類など存在せず、意思や自我を望まれることのない生命として作り出された。つまりは道具だ。期待されるのはIFS強化体質としての電子戦能力であり、情緒もなく、ただ必要なだけの判断能力と命令を忠実に遂行する従順さがあればよかった。融通など利かなくてもよいのだ。支配して行使するのはあくまでも"生きた人間"であり、たとえ使い方を間違えて何らかの被害が起こっても、"人形"に責任はない。
 だが、使えなくなったと判断されたならば、道具は廃棄される。繰り糸の切れた傀儡に意味はなく、その高い能力が自分たちを傷つける可能性を恐れ、消滅させる。
 死ぬのは怖い。傷つくのは怖い。消えてしまうのは怖い。
 だから、ラピスラズリは心を閉じた。怖いと感じる心を失くしてしまえば、地獄さえも乗り切れるだろうと信じて。
 だが願いは、赤い眼の男の襲来と共に砕け散ることとなる。
 恐れることを恐れて閉じたはずの心は力ずくでこじ開けられ、殻に篭って守り抜いてきた脆弱な部分をすら蹂躙された。
 その時彼女は死んだのだ。心を殺されて、思考することも知覚することもない、秀麗な容姿をもった人形そのものと成り果てた。


 それでもラピスは、意思を持って今ここに在る。それは、半身たるテンカワアキトがあってこそ。
 ラピスがアキトの五感を補っているように、アキトはラピスの心を補っている。動くはずのない身体を動かす。意思のない身体に意思を宿す。二人は既に、一つの生き物だ。

 ならば、エリカにも可能なはずだ。
 生きている限り、例えどれ程の傷を負おうと、死は遠い。
 記憶がないくらいでは人は死なない。まずは、それを知ってもらう必要がある。







Bystander


3−1:狭間の彩








 裏には裏のルールがある。それは、敵の敵が必ずしも味方でないのと同じことだ。世界や社会、立場というものを二分化することなどできはせず、正義と対立するのが悪であるというような単純さで生きていくこともできない。歴史が動く時には、平穏という秩序の他に、闘争という混沌が必要である。いわゆる裏の稼業というのは、その闘争部分を担当し、行き過ぎた揉め事を処理するのが役目ということだ。決して犯罪者の吹き溜まりなどではない。
 法で裁けるならばそれが最善。だが、表に出すには憚られるような醜い部分は確実に存在し、全てを白日の下に曝け出すことが最良であるとは限らない。
 天河明人、29歳、男。
 彼は8年前、そういった物事の裏側を知った。
 アキトが純粋に求めていた、ごく普通の人生。かつては屋台を引き、伸び悩む売り上げに苦心し、自分にとってただ一つであった夢を叶えるために寝る間も惜しんで努力した。楽なことなどなく、むしろ困難ばかりが眼前に横たわっていたが、確かに充実していた輝かしいひと時。
 結局はその忘れえぬ日々さえも、戦争という壮絶な体験があったからこそのものだった。そして戦争があったからこそ、アキトは平穏を失うこととなった。今となってはもう、それを理不尽だと憤ることもない。
 戦いはいつまでも続く。同時に、どこかで必ず、平和に暮らしている人たちが存在する。それがアキトにとっての慰め。



 昼下がりの街中で、ざわざわと注目を浴びている三人組がいた。
 うち二人は向けられる視線など全く気に留めず、ずんずんと歩みを進めているが、残りの一人──肩の辺りまで黒髪を伸ばした17、8の少女はひどく居心地が悪そうにしている。ちなみに、周囲が主に奇異の目で見ているのはいざ邁進せんとする二人のほうであり、この哀れな少女は巻き添えを食っている形である。
「なあ、所長。やっぱり私たち、いや、私だけで充分だからさ……」
 肩を丸め、羞恥と困惑を混ぜ合わせた表情を顔に貼り付けながら、少女──エリカは先行く二人に恐る恐る声をかけた。
 その声に反応し、ぴたりと足を止め、ゆっくりと振り返る──恐るべきことに動作の全てが完璧に同じタイミング──苦悩の原因たる二人。
「道に迷ったらまずいでしょ? それに荷物持ちも必要だし」
 こともなげに答える、肩を露出した淡いオレンジのカットソーとジーンズを着た、ラピスラズリ。「荷物持ち」の部分で、隣の人物に一瞬だけ目を向けた。
「女二人だけで街に出すのも心配だしな」
 こちらもまた、何を気にしているのかとでも言わんばかりの堂々さで答える、テンカワアキト。最大の原因はこいつである。
 真夏日だというのに、ロングコート。しかも色は黒で、前面をぴったりと閉じている。顔の半分を覆うバイザーや、全身から滲み出る真っ当ではない人間特有のオーラのようなものも相まって、恐らくは雪降る季節においても違和感を周囲に撒き散らすことだろう。
 不審人物としか言いようがなさすぎて最早メルヘンの領域であるアキトはともかくとして、服装的には問題が無いはずのラピスまでもが何故注目を受けるかといえば、やはりその常人とは一線を画した秀麗な容姿によるものだろう。一人で歩いていたならば若者たちの誘いの言葉もかけられようが、隣に用心棒のごとく圧倒的な存在が控えていては、流石にそんな益荒男を見かけることはない。
 所長と呼ばれたのはアキトのほうである。表向きは事務所として居を構えている彼らの根城に居候する自身の境遇を鑑みての、エリカなりのけじめらしかった。

 三人が何故街に繰り出しているのかといえば、エリカの身の回りの物を揃えるためである。衣服を筆頭に、生活用品や化粧品など、人間一人、それも女性となれば色々と要りようになるものだ。本人はこれ以上世話をかけるのは心苦しいと遠慮したのだが、現実問題として己の身体一つしか持っていないことは確かであり、どちらにせよアキトたちの好意に甘えるしか生きていく手段がない。
 それに、エリカは知らないことだが、ラピスラズリの力によって彼らは金銭面での心配をする必要がなかった。情報や資金の殆どが電子データによって管理される昨今において、"妖精"たるラピスはその気になれば世界経済を動かすことも可能なのである。無論大規模な行動を起こせば様々な面で弊害があるが、たかだか三人の平均的生活水準を維持する程度ならばどうということはない。政治家が国民の血税を億単位で着服するのと比較すれば可愛いものである。
 忘れてはならない。裏には裏のルールというものが存在するが、テンカワアキトとラピスラズリは元々史上最悪とまで呼ばれた犯罪コンビなのだ。ターミナルコロニーを襲撃し、その価格は億にも兆にも届くだろう機動兵器や戦艦を数多く潰してきた彼らにとり、最早金銭感覚という言葉はない。覗いてきた世界が縦にも横にも違いすぎるのである。

 まず赴いたのはブティックである。これから歩き回ろうというのだから、まずは身なりを整えておこうという考えがあるとはいえ、連れにロングコートの男がいる限りは無駄な試みと言ってよかろう。ちなみにアキトは触覚を補助するスーツを着込む必要がある以上どうしても夏らしい服装などできるはずもないのだが、それをエリカに対して説明していない。理由は、エリカが自分の装備とアキトの服装とに関連性を見出すことを危惧したからだ。彼女が性別を誤認しているとはいえ、中々に無謀である。
「じゃあラピス、任せた」
「うん」
 選定役のラピスが、エリカを伴って別行動をとる。
 女物の服売り場というのは男にとって大層居心地の悪い空間だ。中でうろつくにしろ外で待つにしろ、どうしても落ち着かない。しかも、えてして女の買い物には時間がかかるものだ。多くの事柄に関して一般的でない感性を持つラピスでさえ、その傾向はある。着飾る必要がないとしても二着三着程度ではきかないのだし、下着も必須。アキトは荷物持ち兼護衛という自分の仕事の困難さを思った。
 何気なく視線を回す。この店はそこそこに規模があり、アキトにはよくわからないがその雰囲気や品揃えの豊富さから人気があるようで、高校の制服を着た少女から主婦、身なりのいいご婦人方など多種多様な客が溢れている。男の姿もちらほらと見かけるが、恐らくはアキトと同じように荷物持ちとして駆り出されたのだろう、どこかうんざりしたような表情の者が多い。
 危険はないだろう、とアキトは判断する。護衛といってもそれはあくまでナンパ除け程度の意味合いなのだが、血と硝煙の戦場にどっぷりと身を浸してきた彼にとってはいかなる場面においても警戒してしすぎるということはない。情報操作では右に出るものがいない相棒の力もあって、平時に命を狙われるような機会はかなり少ないほうだったが、それでも全くなかったといえば嘘になる。とはいえラピスも非常時に備えて銃を携帯しているし、何かあればリンクを通じて知らせることになっているのだ。この、機器も何も必要としないリンクという瞬時の意思疎通こそが、二人を幾度となく救ってきた最大の武器である。

 無論一般の客からすればアキトこそが突然日常に舞い込んできた危険そのものに見えるのだろうが、本人はそれには気付かず万が一を考えて店内の構造把握に努めている。気の弱そうな女性店員は泣きそうな顔をしているし、彼が歩くたびにごった返す人垣にモーゼの奇跡のごとく人一人分の通路が出来上がる。性質の悪い営業妨害と言うほかない。
 何か不穏な動きを見せれば、即座に通報されてしまいかねなかった。

 どん、という音と共に、周囲の人間が息を呑む。今の今まで注目の的であったアキトに真正面からぶつかった少女がいたからだ。
 明るい栗色の髪を伸ばした、高校生くらいの年代。曖昧な言い方なのは、少女にはどことなく大人びた雰囲気があったからである。
 友人との会話に興じていたのだろう、少女は一瞬だけぽかんとし、顔を上げて──思い切り引きつった。何処をどう見ても堅気ではない漆黒の壁がぬらりと立ちはだかり、自分を見下ろしているのである。悲鳴をあげないだけ大したものだと言っていい。
 哀れ、命運は尽きたか。掛け値なしに店内が完全に沈黙し、誰も動けない。
「すまん。余所見をしていた」
 しかしアキトだけは違った。謝罪を述べ、自分から脇にどいて、また歩き出す。
 実際、アキトにとっては完全に自分の不注意であった。全体を視ることばかりに気をとられて付近をおろそかにしてしまったなど、戦場ではありえぬ失態である。元々索敵という分野は感覚器たるラピスが得手とするところであり、アキト本人も単独での拠点強襲や潜入工作などを行っていた分近距離での敵意や殺意というものに対しては鋭敏なのだが、銃声も聞こえてこないような街中でそんな物騒なものが転がっているわけもなく、気も緩んでいたのだろう。当然彼とぶつかった少女にしても、闘争の世界に生きるアキトを揺さぶるような殺気など放っているはずもない。巨大な獲物を捕らえようと網を大きく頑丈にしても、小さな得物は網の目を素通りできるというようなものである。
 盛大な安堵の吐息と、「やっぱ本物は堅気の人間に手を出したりしないものなんだなあ」「いや、きっと今の一瞬で凄まじい攻防がなされたんだ」などという呟きを背中に受けながら、まるで意に介さずにアキトは進んだ。

 そして、期せずして裏の人間と接触してしまった少女のほうはというと、呆然と黒い男を目で追いかけ、その姿が見えなくなってからしばらくした後にようやく再起動を果たした。
「あ……そういえば私、謝ってないや」
 ──今から追いかけるのも変よね。どうしよっかなー。
 つい先程までは蛇に睨まれた蛙のような状態であったというのに、豪胆なのか鈍感なのか、とりあえず男に対して悪感情は覚えなかったようである。そうなると、生来の良識的な気質がゆえか、フリーズして何の反応も返せなかったことに落ち着かない気分になってしまう。そも、余所見をしていたのは少女のほうも同じなのである。かといって、ぶつかった程度のことでわざわざ改めて謝罪に行くというのも変な話だ。
 通路の真ん中で足を止め、愛嬌のある口元を尖らせて思案する少女に、友人が声をかけた。
「ほら、とにかく移動するよ。……お〜い、ミナト! また誰かにぶつかっちゃうでしょ!」






□□□






 エリカは困惑していた。何故か、女物の衣服を着ることに強い抵抗を覚えてしまう自分に対して。
 スカートが嫌だ、というくらいであればそれ程おかしなことではない。男勝りというのでもないが、いわゆるひらひらした服を忌避する人種も少なくはない。普段の口調を鑑みても、自分がどちらかといえばそちら側に近いだろうことはわかる。
 しかし、ラピスが選ぶ服は装飾面よりも機能性を重視したものが殆どである。着やすさも動きやすさもあり、それでいて野暮ったさのないスマートな選択をする。本来ならエリカに不満があろうはずもない。
 だが、ラピスが常のように淡々と「これどう?」と広げた服を見るたびに、どこか腰が引けてしまっていることを自覚する。
 ならば自分で選んでみようと動き回り、いざ手に取ってみれば「それ、男物だよ」とくる。
「そういうのが好きなら別にいいんだけどね。私もアキトもあんまり気にしないほうだし」
 響きは変わらず平坦であっても、どこか残念そうな色合いを秘めた声音でそう言われれば、エリカとしては慌てて服を棚に戻すしかできない。居候の身分、絶対的に立場は弱く、しかも恩人である二人がエリカの意思を尊重しようとすることで、より一層肩身が狭くなってしまう。
 わたしは一体何をやってるんだろう。エリカは声に出さずに己の不甲斐なさを嘆いた。
 そんなエリカの横を、すっと通り過ぎる人物がいた。

 ──え?
 
 自然、目が吸い寄せられた。エリカの胸の内に燻る、過去という名の残滓が一瞬だけざわめいた。
 明るい栗色の髪。艶めいた瞳。ぷっくりとした、潤いのある唇。
 それは先程アキトとぶつかった少女だった。無論、ラピスと共に服を選んでいたエリカがそれを知っているはずもない。だが、奇妙な既視感──そして、多少のブレに戸惑う。
 彼女は誰だ? わたしは彼女を知っている?
 ──それとも、誰かに似ている? わたしの知っている誰か。わたしの過去に存在した、誰か。
 エリカは混乱した。今はもう、少女の姿は人垣の中に消えている。しかしその後ろ姿が、エリカの中で漠然とした影のような形をした何かと共鳴し、震える。パズルのピース程にもまとまっていない記憶の欠片、その中核からも遠い何処かで、それは独自の形をなし、急速に色合いを帯びてくる。


 蝉の鳴き声。並び立つ石を目の前に、非難の声がかけられる。

 ──アンタ、なんてこと言うのよ!

 自分のためではない、他人のために怒りを露わにした、その表情。

 ──この子はね! ****のこと本当は──!


 何故か、頬に痛みが走ったような気がした。

 得体の知れない焦燥感に掻き立てられ、エリカは走り出していた。
 決して狭くはない店内だが、人が多く、無理矢理に身体を押し込んでも遅々として進まない。突き飛ばされた者たちが怒声を上げようとして、その鬼気迫る様子に圧されて息を呑む。爛々とした双眸を見開き、その中に僅か以上困惑を滲ませながら、エリカは少女を探す。



 あまりにも唐突で、一瞬だけラピスは何が起こったのか把握し損ねた。
 エリカが動いた。それは何故か。今の彼女が積極的に行動を起こす理由など、どれだけあるというのだろう。きっかけがたまたま隣を通り過ぎた少女にあることなど、当然ラピスには知りようもない。
 ──アキト!
 それでもラピスは瞬時に状況に対処する選択をした。己の半身に呼びかけ、指示を仰ぐ。手に持っていた服を放り投げ、エリカの後姿を追いながら。






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