厚く塗り固められた、色のない壁がある。
 否。壁ではなく、殻だ。
 今まで生きてきた全てが、蓄積されてきた人生そのものが、知識も感情も記憶も、自分の名前さえもがその殻の中で眠っている。一人の人間を構成する要素の全てをそこに置き忘れたまま、ただ身体だけが外に在る。
 そして、その殻は外側からは決して開けられないようにできているのだ。いくら必死になって叩いても、ひび割れ一つ走らない。
 だから、ただ待っていることしかできない。殻の中にあるとても大切なものが震え、外に出ようとする機会を。眼を凝らして、決して見逃さぬように。
 そして、今がその時だ。

 身体が水か風にでもなればいい。林立する障害を苦もなく通り過ぎて、流れるように目標に手が届けばいい。
 目の前にちらつく、栗色の髪の少女。果たして自分にとってどんな存在であったかなど、わかりはしない。
 だが、響くのだ。役立たずの頭蓋に残された数少ないもの。
 そう──『ナデシコ』だ。
 ナデシコ。それが果たして何なのか、それさえもわかりはしないのだけれど、自分にとって中核ともいえる程の存在であったことが感覚としてわかる。
 ──実際には、ただ一縷の望みに全てを捧ぐしかないからだとしても。先の見通せない暗闇の中の、ただ一筋の光明に縋り付いているだけなのだとしても。
 それしかない、というのは確かなこと。



 それ程長い距離である筈がない。自分に体力がないという可能性も今は捨てよう。だというのに、何故か息が切れ、足が重い。
 エリカは今、気ばかりが急いて、その実思う通りには進まないという現実に空回りしていた。







Bystander


3−2:決意の日








 ラピスの要請を受けたアキトは、ざわめきだした空間に鋭く顔を向けた。平均程度の身長しかないアキトでも、周囲の殆どが女性であるこの場所では充分に長身の部類に入る。そのため、人垣や陳列棚に視界を阻まれることなくその姿を発見した。

 障害物などまるで見えていないかのように、エリカが走っている。何かを探しているのか、絶え間なく視線を動かして、ただの一瞬とて足を止めずに走っている。周囲の人間は訝しげにそれを見やり、突き飛ばされた数人は悪態をつき、──そして、その後を続くように現れた桃色の髪。ラピスラズリ。
 ──ラピス、そこで止まれ。あいつは俺が追う。お前は周りの人たちに怪我がないかどうか確認するんだ。
 その瞬間、ラピスはぴたりを足を止め、アキトの指示通りに動き出す。倒れている人物を抱き起こし、声をかける。
 遠目にその顎が幾度か上下に動いているのを確認して、アキトもまた動く。

 無駄のない動作で足を進めながら、アキトは思考する。
 ──ラピスが何も気付いていないということは、暴漢だとか異常者だとかの危険があったわけではない。それらしい気配は何も感じられなかった。ならば、エリカは何を見つけたのか。
 エリカの進行方向、その先を見渡す。出口があるわけではない──エリカは逃げようとしているのではない。
 何かを探している。表情からして、まさか服を探しているわけでもあるまい。ならばなんだ? 追わなければならないもの──動くもの、逃げるもの、離れていくもの──逃してはならないもの。エリカにとって、価値のあるもの──
 知り合いか、それとも記憶に引っかかる何かを所持した人間。恐らく間違いはない。
「どちらにせよ、目立ちすぎだ」
 その相手がエリカとどんな関係であるにせよ、あんな風に追っていては逃げるに決まっている。それに、人目につく所で騒ぎを起こすのはまずい。警察の厄介になどなろうものなら、身分を証明できない彼女がどんな扱いを受けるか、わかったものではない。
 そして何よりも、エリカはこの時代の人間ではない。記憶の中に知り合いがいたとして──その相手が彼女を知っている保証もない。知っていても、少なくともエリカは2201年以降から逆行してきた。年齢が合わず、相互認識に齟齬が起きるのは必然。

 アキトは舌打ちをした。やはり、話しておくべきなのか。お前の知っている人間など何処にも居ない、と。この世界で、お前は何処までも孤独なのだと教えるべきなのか。
 自分には今まで生きてきて積み重ねた、今を支える記憶がある。共に逆行した、半身たるラピスの存在もある。この世界での6年間で、ある程度の気持ちの整理もついている。少なくとも、生きていくことは充分に可能だ。
 だがエリカの現状は、彼女が思っている以上に絶望的なのかもしれない。
 エリカは何も知らない。だが信じている。何処かに自分が暮らしていた場所があって、自分を知っている人間がいて、いつかはそこに帰れると信じ、そうしてようやく精神の均衡を保っている。
 その信仰を打ち崩すべきなのだとしても、今はまだ、あまりにも早すぎるのではないか。
 その思いが、アキトを躊躇わせ、苛立たせた。
 エリカが何者なのか、アキトも知らない。だが、もしもの可能性──彼女が自分の犯した罪を肩代わりさせられた存在なのではないかという、棄てきれぬ推論が存在する以上、アキトに見捨てるという選択肢はない。
 アキトもまた、信じていたからだ。放り出すことなどできない己の罪。忘れられるはずもないあの復讐の日々に、いつかは自分の手で決着をつけなければならないと。誰も自分のことを知らない世界に迷い込んでも、そこで穏やかに生きていくことが可能なのだとしても、苦痛に満ちているかつての世界へ戻り、例えどんな結末が待っていたとしても、自分で受け止めて答えを出さねばならないと信じていた。誰かにその役目を押し付けるなど、どうしてできようか。



 6年。それだけの時を経ても、手掛かり一つ掴めなかった。ボソンジャンプ、A級ジャンパー、遺跡。自分がジャンパーとしての能力をどれだけ磨いても、時を渡る術にまで到達することは果たして可能なのか。その上意図した時間軸──さらには、そこに居る人物が自分の知っている、自分を知っている存在であるという願いに手は届くのか。
 そんな焦燥が、いつも胸に燻っていた。自分にできるのか。人が自在に時を越えるなどというような奇跡を起こせるのか。まるで神に挑むような真似が許されるのか。

 だがそれは、単なる自己欺瞞であったと今なら思う。
 無理である筈がない。ジャンプはイメージによって発動する。本当にそれを望んでいるのなら、不可能ではない筈なのだ。
 そう信じる。どれだけ可能性が低かろうと、実現してみせる。

 ──きっと、今までは無意識に眼を逸らしていた。心の何処かに、全てを投げ出してしまいたいという思いが存在していた。だからこそ、恐らくこの時代に跳んだのだ。心の底から、あの世界に留まることを望んでいたわけではなかったから。
 アキトは己を罵倒する。──このチキン野郎、お前はどれだけ腑抜けてやがるんだ。
 そして、考える。この出会いの意味を。真実がどうあれ、己の罪を再認識するきっかけとなったエリカの意味を。
 彼女に、何をしてやるべきなのか。
 これはケジメであると同時に、手段でもある。エリカを放っておいたままでは戻れない。心残りがあったままでは、きっとあの時へと戻れない。彼女がこれからどうなるのか。過酷な現実に立ち向かえるのか。失ったものを取り戻し、その後に何を選択するのか。
 それを確かめる。可能な限り支援する。今まで放棄していた義務を果たすために。
 そう、ようやく気付いた。喪失するということの、本当の恐怖に。世界から弾き出されて、軸から隔絶された空間で、自分を騙すための言い訳を考えながら、諦観を抱いて怠惰に日々を過ごしていくことの、愚かしさと共に。






□□□






 エリカは少女を見失っていた。元よりその姿を鮮明に記憶していたわけではなく、真正面から顔を見たわけでもない。加えて、エリカが惹き付けられたのは少女の顔や服装といった個別のパーツではなく、もっと全体的な印象による。走っているうちに脳裏で再生される映像が急速に劣化していき、今では最早『栗色の髪の女』という最も曖昧な部分しか残っていなかったのである。
 周囲を見渡せば、むしろ黒髪のほうが少ないくらいだ。視界には程度の差こそあれ髪を脱色している人間ばかりが並び、そしてその殆どが女性であるというこの場所で、確かな手掛かりを持たないまま闇雲に人を探し回った所でどうにもなるまい。
 だが、エリカは止まらない。否、止まれなかった。
 名前も知らない相手。だが、ひょっとしたら自分を知っているかもしれない相手。

 わたしの名前を呼んでくれるかもしれない。
 わたしが誰なのか、教えてくれるかもしれない。
 わたしを心配してくれるような、そんな人だったのかもしれない。

 エリカの中で、僅かな期待ばかりが暴れている。逆の可能性を考える余裕がないと言ってもいい。もしくは、これ以上失うものなどないという自暴自棄から来るものか。渇望する心に突き動かされるまま、傷付くことを恐れず──その可能性を無視して、衝動的に動いていた。前しか見えない。振り返る過去が存在しないのだから、それしかない。



 だからこそ、エリカは目の前に突然現れた漆黒の壁に、真正面から激突した。



 テンカワアキト。いつの間にか先回りしていた彼が、エリカの前に立ちはだかって止めたのだ。アキトはもがくエリカを静かに、しかし力強く押さえつけ、抱え上げて肩に担いだ。
「──なッ、離せ!」
 それは屈辱的な自分の姿を気にしているのではない、単純に、行動を阻害されていることに対しての言葉だった。怒りではなく、焦りの色が強くある。
「落ち着け」
 対するアキトの言葉は何処までも冷ややか。暴れるエリカをものともせずに、重圧さえ感じるような挙動で足を進めていく。方向は真逆。出口のほうへと。
 アキトはぽつりと、エリカにだけ聞こえる小声で言った。
「誰を追ってるのかは知らんが──外で待っていればそのうち出てくる」

「あ……」

 それは、考えてみれば当たり前のことだった。その一言で、エリカを浮かしていた熱は一気に沈んだ。
 そしてある程度冷静になると、自分の行動を振り返る余裕ができる。エリカは恐る恐る周囲に眼を泳がせて、顔を青くした。
 訝しげ──というよりも、既に明らかな不審と好奇の目が二人を射抜いていた。突如店内で暴れだした女と、それを荷物の如く抱え持つ怪しげな風体の男。視線を集めない訳がない。当然、かなり悪いほうの意味合いで。
「うわ……すいません、ご迷惑を……」
 アキトにか、周囲にか、どちらに対してなのかもわからぬままエリカは謝罪の言葉を思いつくまま並べた。男の肩の上で、俯きながらぼそぼそと弱々しく呟くエリカを見て、周囲の客はいかなる想像の翼を広げたろうか。それもまた、想像するしかないことである。

 不意にアキトが顔を上げ、一点を見据えた。それを見たエリカも、同じようにそちらへと眼を向けた。
 その先では、足を組んでレジの上に腰掛けているラピスが、二人に向けて親指を立てていた。

 ──アキト。とりあえず、通報はされないようにしといた。

 監視カメラの映像差し替え、通信の妨害、その他諸々。
 リンクを介した言葉によって、アキトだけはラピスのジェスチャーの意味を正確に知ることができたが、エリカとしては困惑し、焦る以外になかったという。






□□□






「あれ?」
 長い買い物を終えて店から出た少女──ミナトは、ざわざわと注目を浴びている三人組を発見した。
 一人は、肩の辺りまで黒髪を伸ばした17、8の少女。
 一人は、染めているにしてもよく似合っている桃色の髪の、小柄だが妙に大人びた、というよりは淡白な印象を与える少女。
 一人は、真夏日だというのに前面をぴったりと閉じたロングコートを着込む、どう見ても堅気ではない雰囲気を持つ男。
 それは、少しばかり無理をしたくらいでは両手に花とも認識できない、一体どういう関係なのかさっぱりわからない三人組であった。
「あ、さっきの人」
 ごく普通の感性を持つ人間ならばまず近寄るまいそのテリトリーに、豪胆なのか鈍感なのか、ミナトは物怖じせず入り込んだ。先程謝り損ねた人がそこにいて、その隣にとても可愛らしい少女がいて、この二人に比べればとても普通に見える少女がいて、興味を抱かない筈もなかった。
 ──外見は怖いけど、多分そんなに悪い人じゃなさそうだし。謝るついでに、あっちの娘たちとお近づきになれないかなー。
 特に小さいほう。年頃の少女らしく可愛いものが好きなミナトの手はウズウズしっぱなしであった。実はラピスが自分より年上であることなど、恐らく考えに及ぶまい。



 近付いてくる少女に気付いたのはラピスが一番先だった。アキトの眼であり耳である、感覚器たるラピスラズリは鋭敏だ。
 これがエリカならば、勢い込んで話しかけ、逃げられたかもしれない。アキトならば、適当に受け答えて終わるだろう。だがラピスだけは、少女と顔を合わせていなかった。自然、警戒心を抱く。横目で少女を見て、その目元を細め──アキトに止められた。
「んーっと、ちょっといいかな?」
「何だ?」
 自分に声をかけてきた少女を見る。そして、アキトはここでようやく、その容貌に見覚えがあることに気付いた。
 ──ハルカミナト。ナデシコの操舵士。特に親しかった訳ではないが、顔を忘れる程関わらなかった訳でもない。かつてアキトが18歳だった時に出会った、22歳の女性。しかし今現在アキトは29歳で、彼女は恐らく、17かそこらだろう。一瞬顔を合わせたくらいでは気付かなくても無理はなかった。
 ついに、来たみたいだな。アキトは思う。かつての世界とのすり合わせ。
 そう、歴史に関わるまいと、この世界はこの世界に生きる者達のものだと考えながらも、ただ純粋に恐れていたこと。
 自分が知る人間が、自分を知らないということ。その現実を目の当たりにして、果たして自分がどうなるのかを恐れていた。
「さっきぶつかっちゃった時、私だけ謝らなかったことを謝ろうかなってね」
「……? よくわからんが、謝罪は受け取る」
 アキトの目的は、かつての時間軸への帰還だ。この時、この場所で誰かと絆を結んでも、いつかは去っていくことになる。だからこそ、隠れ住むように生きてきた。少なくとも、アキトはそう考えて生きていた。
 ──そんなに肩肘張ることはないか。少なくとも、今まで通りにはいかないってだけだ。
 答えはとっくに出ていた。ただ、きっかけが必要だった。それだけだ。




「で、で、で。貴女たちのお名前は?」
「え……いや、えーと」
「ラピスラズリ。こっちはエリカ」
「エリカちゃんと……ちょっと長いから、ラピス……いえ、ラピちゃんでどう?」
「……何が?」 






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