どこかの世界、いつかの時間軸に、最早呆れるほどに繰り返された『世界の危機』が訪れる。
 それは果てしない強大さを秘めた呪いだ。手を出すのを恐れて放置すれば、時を待たずして際限なく肥え太り、あらゆる命を喰らい尽くすことだろう。
 どうしてそんなものが現れたのか? 論ずる意味はない。
 人の手に余るそれを排除できるか? 論ずる必要はない。
 手段は口上ではなく、純粋な力と神秘の業でのみ示される。




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 彼女の初陣

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 少女が大地に降り立ったとき、そこは既に戦場だった。眼に届く限りには一切の緑がない、赤茶色の砂地。だが何もないなどということがあるはずもなく、遠く遥かからでさえ届くこの悪意と怨嗟。全身がひび割れるような荒涼たる風が血臭と腐臭を絶え間なく撒き散らし、生ある者の鼻腔を否応なしに突き抜ける。ずるずると蠢く肉感的な音に混じり、骨を絶つ音、そして鋼が噛み合わさる音が微かに耳朶を打つ。その薄弱な響きを、人ならぬ身なればこそ捉えうる。
 それが一方的な暴力によるものか、抵抗する何者かがいるのか。どちらにせよ考慮すべき問題ではなく、足を止める要因ではありえない。少女は一直線に、嗅覚と聴覚が訴えた暴虐の舞台へと駆けていく。
 速く。より迅く。
 肉体が持つ力だけでなく、少女の誇る爆発的な魔力放出による加速が、一見して華奢な造形をそのままに、その在り様を突風足らしめる。行く手を遮ろうと躍り出た黒い泥の欠片が、奔る風に触れた刹那に切り裂かれて霧散した。

 地平線の果てまで、移動に費やしたのは60秒にも満たない。
 大樹の如く根を張り、天高くそびえ立つ呪詛の塊を前にして、少女の姿を取り戻した風が止む。腰を落とし、不可視の剣を逆袈裟に構え、大気を歪ませる暗黒を睥睨する。
 少女が地を蹴るのと、泥が触手を槍のように突き出したのはほぼ同時。一直線に心臓を狙う一撃を切り落とし、左右から襲い来る鉄塊じみた密度の第二手を力任せに薙ぎ払う。足は止まらず、剣閃が泥を断ち割るたびにより深く切り込んでいく。
 影のように地面を這いずり、足元から飲み込もうとする醜悪な怨念を跳躍して回避し、そのままの勢いで剣を振り上げて抉る。触れるだけで致命となりうる憎悪の懐で、全方位から降り注ぐ猛攻を全て凌ぎ、叩き砕く。死地の只中にあって、風をまとう聖剣は確実に少女の活路を切り開く。
 恐れを知らぬその疾駆に気圧されたか、泥は己が身の全てを用い、少女に向かって倒れこむようにして覆い被さろうとする。不定形の闇が灰色の空を塗り潰し、少女の眼には瞬時にして昼と夜が入れ替わるように見えた。
 だが、そんなものは少女の心胆を寒からしめる脅威ではない。半円状となった泥は檻。その内の空白に捕らわれたのは牙持つ獅子。この程度の束縛で一体何を抑えきれるというのか。この怨敵を前にして、何故奮わずにいられようか。途端、少女の剣を軸にして暴風が荒れ狂う。黒い檻の外殻が軋み、内側から張り裂かんとする威力に耐えようと、その流動体を持ってして抑えつける。

 その時、星が落ちた。

 轟音と同時に三つ、青白い閃光が泥を貫く。外側から貫通された黒い泥は内包する圧力に容易く膝を折り、針で突かれた風船のように破裂して飛び散った。暗闇から突然日中に逆戻りし、訝しがりながらも少女は油断なく周囲を見回した。
「助力は不要だったかな」
 鍛えられた鋼のごとき力強い声が少女の耳に届く。視線を上げると、高く積まれた瓦礫の上に、はためく赤い外套が見えた。黒塗りの弓を携え、褐色の肌と白い髪を持つ騎士が立っている。
 少女は、その姿に見覚えがあると感じた。記憶ではなく、記録の底に収められた知識を紐解き、現れた騎士の名前を引き出した。
「守護者エミヤ。──いえ、感謝します」
 感情の篭らない声音を聞き、騎士──エミヤは「ほう」と呟いた。
「成程、君はこれが"初陣"か」
 少女はその言葉の意味を図りかねたが、活動を再開した泥の気配を感じ取り思考を切り替えた。地面に染み込んだ黒い飛沫が次第に鎌首をもたげ、大小様々な無数の群れとなる。囲まれている形ではあるが、さりとて障害になる要素ではない。眼前の敵を一刀の元に薙ぎ払い、切り崩すだけのこと。ただ前方のみを見据え、剣を構える。
 上空から小さな破裂音が聴こえ、握り拳程度の大きさの泥が力なくぱたぱたと落ちてきた。先程の矢によって飛び散った泥の一部が高所に潜み、隙を見て真上から襲いかかったのだろう。そして、それをエミヤが狙撃したのだと瞬時に察する。
 弓を構えたままの体勢で、エミヤは目線だけで少女に笑いかけた。
「この身は一介の守護者に過ぎんが、これでも一日の長はある。──背中くらいは、任されよう」
 エミヤの弓が一瞬にして八条の閃光を放ち、その全てが少女の視界に映りきらない位置で揺れている泥を正確に打ち抜く。それを確認するより早く、少女は駆け出し、並み居る異形を両断した。


□□□


 座に在りて抑止力たる者に時間の概念はなく、永劫に続く戦場を留めるのは記録。幾度となく終末の地獄に呼び出され、全て殺し尽くして務めを果たす。己の立つ戦場が"何度目"なのか、知る術はない。例え英雄と呼ばれた者であっても、元々人間である以上は精神が耐えうる負荷にも限度がある。悲鳴、嗚咽、慟哭、救済を求める悲痛な叫び。吐かれる呪詛。くぐもった声で漏らされる断末魔。肉を裂き骨を断つ感触。脳髄に染み渡り全身を染め上げる戦の匂い。それら生々しい記憶を残していれば、そして忌まわしきその殺戮のみがこれからの己に課せられた全てなのだと、逃れる術はないのだと知ってしまえば。
 狂えば楽にもなれるだろう。
 死を選べるのならそうする者もいるだろう。
 そうさせないために、魂には記録、現れた危機と、それらが己によって阻止されたという事実のみが刻まれるのだ。

 ──だから、変わるのは守護者だけだ。人々の信仰の対象、壊れることのない貴き幻想たる彼女ら正規の英霊が、使いモノにならなくなるような事態を世界が歓迎するはずがない。
 大した力も持たぬ人間が分不相応な奇跡を欲するならば、別の何か、大きな力の持ち主に頼るのは必然だ。そうして世界と契約した守護者には信仰などなく、存在を支え神秘へと昇華する幻想など存在しようはずもない。ただ世界のために振るう力を求められ、否も応もなく現界するのみ。
 故に守護者は奴隷。使い捨ての駒に過ぎない。壊れても取替えのきく、英霊には及ばないまでもそこそこに人類を逸脱した力を備えた便利な道具だ。

 ──だから、壊れるほどに記録を重ねるのは守護者だけだ。
 英霊の座に迎えられ、サーヴァント・セイバーという"幻想"のカテゴリに該当しない時期の記憶は記録に堕し、人々が知る、人々が望むアーサー王そのものとなった彼女はきっと、もうずっとこのままだろう。強く気高い騎士王は、無限の時を重ねても変わらない。折れず、曲がらず、それ故に磨耗するしかなかった自分とは違い、永劫に続く地獄など一太刀で切り伏せることだろう。欠けず、砕けず、綻びることなく。セイバーと呼ばれた、アルトリアという名の少女の心をどこかに置いたままで、彼女は「アーサー王」という幻想のままで在り続ける。

 そう思い──だから、彼女を壊すのは己の役目だとエミヤは自身に誓う。エミヤシロウという真名に誓う。
 ただ愚かで、叶うはずのない理想だけを追い求め、それを貫き通し。死後さえも己の意思で売り渡した結果、その己の理想と意思とを憎むに至った無様な男にさえ、奇跡は二度も訪れたのだ。
 一つは、目的を達成しうる僅かな可能性を引き当てた。
 一つは、そこで絶望を塗り潰すに足る答えを得た。
 きっと、彼女の魂を解き放ったのは別の世界のエミヤシロウなのだろう。それは確信として胸にある。守護者になってさえ誰一人救えなかった自分と違い、同一起源であるはずの少年は、確かに人を救ったのだ。

 ──ならば、私とて奇跡の一つも起こしてみせねば、エミヤシロウに顔向けできまい。


□□□


 幾度となく射抜かれ、切り捨てられた黒い泥は、若干その体積を削られながらも離れた欠片を逐一回収し、衰えることのない威容を保持し続けた。だが少女とエミヤに焦りも諦めもありはしない。世界という強力な後ろ盾がある以上彼らの力もまた衰えることはなく、少女の手が届かない部位をエミヤが射抜き、後方支援に徹するエミヤに近付かせないよう少女が圧倒的な攻撃力を誇る盾となる連携もまた、黒い泥に拮抗する力を持っていた。
 ふ、とエミヤは皮肉気な笑みを浮かべた。
「何故、抑止力が二人も呼ばれたのかはわかるな? 私一人では奴に抗しきれず、君一人では奴を殺しきれない」
 そう口にする間にも次々と新たなる矢が放たれ、その言葉を聞きながらも少女は剣を振るい続ける。
「そして三人目が呼ばれぬ以上──我らは間違いなく、このおぞましき異形を打倒する」
 今まではただの──それでも城壁を穿つ威力はあるが──矢だけを弓につがえていたエミヤの背後に、無数の剣が現れた。それらは一つ一つが強力な聖剣魔剣の類であり、歴史も国籍もバラバラで統合性に欠けてはいたが、紛れもない神秘だった。いくつかは、少女の持つ剣に匹敵する魔力を内包している。それは威容たる黒い泥を前にして、なお異様な光景。
 流石に少女も驚愕を顔に貼り付け、この守護者に背を向けたままでよいのかという危惧さえした。"務め"にあたる際、世界から受け渡された情報を検索する。そも、"エミヤ"という名前さえ生前の記憶として残っていたわけではない。ただその姿、あまりに独特なその容姿と、鷹の目のごとき眼光は一度目にしたらそう忘れられるものではなく、見覚えがあるという理由で記録を漁り、結果見つかったというだけのこと。自分の耳で聞いたのか、渡された情報なのかさえ曖昧だ。
 しかし検索が終了する前に、エミヤの背後が揺らいだ。数多の剣が先の矢に匹敵する速度で黒い泥を襲い、次々と突き立っていく。砲撃にも似た剣群は絶え間なく雨のように降り注ぎ、縫い止められた異形が苦悶するかのようにのたうつ。
 そして、まさに剣の山となった泥を見上げる少女の背に──
「とどめは君が。初仕事を華やかに飾るといい──なあ、セイバー」
 確固たる意思を、悪戯めいた意図を、そして、信頼さえ込めた声色で、言葉が投げかけられた。

 違和を感じる。恐らくはエミヤが最も感情を込めた"セイバー"という単語に。剣を表す言葉。成程、剣士たる己には相応しき称号だろう。だが本当にそれだけだろうか? まるで窒息しているような、喉につかえた感覚がある。記憶に鍵をかけられているような空白がある。何か、とても大切なものがあったのではなかったか──
 ともすれば自身を根底から覆しかねない思考が少女の脳裏を駆ける。飲まれてはならない。鋼の意思をもって、揺さぶられる心を捻じ伏せる。ほんの一時さえ、表情は微動だにせぬまま。
 聖剣を振りかざす。発動までに要する若干のタイムラグは、あの弓手が埋めるだろう。既にエミヤは己が最後の一撃とばかりに、一際異彩を放つ螺旋状の剣を弓につがえ、弦を引き絞っている。その腕前はこの戦いで十二分に見せてもらった。彼に対して抱いた疑惑は、その焼けた鉄のごとく苛烈で一振りの剣のように真っ直ぐな雄姿を見れば瑣末が過ぎる。少女はエミヤの信頼に応えるため、エミヤの弓の腕に賞賛を送るため、口を開いた。

「──承知しました。"アーチャー"」

 獰猛な笑みを浮かべたのは二人同時。先に放たれたのはエミヤの一撃。大気を抉り、空間に溢れる大源をその鏃に巻き付けながら、破壊力の塊と化した矢が黒い泥に突き刺さる。直後に炸裂した、全身を粉々に砕きかねないほどの爆発と振動が少女の肚の底を揺るがし、焔のごとき昂揚が爪先から脳天まで突き抜けた。
 螺旋剣の起こした爆発によって、黒い泥を余さず縫い付けていた剣が連鎖的に壊され、込められた魔力を暴発させる。その暴虐は百を数えてなお続き、どれだけ切り刻んでも減りはせぬ泥を、天を焦がす程に高く業火に包む。同時に、少女が構える聖剣が目の前のそれを凌駕する破壊の意思を帯び、視界を灼く神聖な閃光とそれを担う騎士王の背中に、エミヤは誇り高き竜の姿を錯覚した。
 そして、一軍を切り裂く最強の聖剣が、人の罪業を両断する。
 迸る光の刃は星にまで届く。焼き尽くされた傷痕を幻想の結晶たる神秘が完膚なきまでに引き裂き、──終焉はここに、浄化は完了した。



 抑止力としての務めを果たし、消えて座に戻るまでの短い時間。少女は守護者に問いかけた。
「エミヤ。貴方が先程口にした"初陣"とは、一体」
 悠然と腕を組み、微かな笑みを口元に含ませて、エミヤは返した。
「なに。英霊に時間の概念などありはしないが、それでも積み重なるものはある。長くこの仕事をやっていると、知らず知らずのうちに心根が捻じ曲がってしまうというのがその証左だな」
 自嘲めいた口調ではあるが、そこに諦観は感じられない。先にある艱難辛苦を見越していながらも、信じる道を邁進せんとする意思がそこにある。
 そして少女はエミヤの言葉の意図を知る。
「……貴方は、誰なのでしょう。貴方の姿には確かに見覚えがある。だが名前やその腕前に関して、私の記憶は曖昧なままだ。その口振りからすると、貴方は生前の私を知っているはず」
 表情には出さなかったが、エミヤは内心が浮き立つのを感じた。セイバーが自分の姿を見たのなら、それは聖杯戦争以外にありえない。そしてあの戦いを少しでも記憶に留めているのなら、彼女にとって自分よりも遥かに強い絆であろう、あの少年を忘れているはずがない。
 ならば、限りなく低い確率とはいえど──奇跡を引き寄せることは、可能だ。
 すでに体は薄らみはじめている。今回の召喚では、それがわかっただけで大収穫と考えよう。いずれ、可及的速やかに、アーサー王という幻想を打ち砕く。
 そして──
「私については瑣末事に過ぎんよ、セイバー。顔も忘れてくれていい。だが、名前は重要だ」
 お互いに膝から下は消えうせている。エミヤは最後に一言、楔を打ち込んだ。


「──エミヤシロウだ。この名前だけは、憶えていてくれ」


 ──そして、いつか少年の下へ、奇跡を送り届ける。




 セイバー帰還モノに繋げられるようなのを目指したつもり。
 あと、この二人の共闘が書きたかった。抑止が二人とか守護者と英霊が同時にってあたりはもう上手い言い訳が思いつかない。

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