長い長い眠りから、ラピスラズリは覚醒した。
 そう、彼女は眠っていたのだ。苦痛への恐怖、先の見えない絶望への諦観から眼を背けるために、いずれ来たるやもしれぬ解放の時を待つために。







Bystander
過去回想・1








 ラピスの視界に、見たこともない鮮烈な光が広がった。その光は容赦なく網膜に染み渡り、まるで焼け付くような痛みを錯覚させる。しかしラピスはその大きな瞳を細めもせず、ただ受け入れていた。ひょっとしたら、瞼の閉じ方さえ忘れていたのかもしれなかった。努めて意識しなければ、呼吸一つ満足にはこなせないのではないかと、己を冷静に分析していた。
 やがて白に染まった視界が和らぎ、色と形とを判別できるまでになると、ようやくラピスは先の光が単なる照明であったと知った。ふとした疑問が胸の内に湧き上がる。──あんな物が、こんなにも眩しいのなら。果たして太陽とはどれ程散々に私を灼くのだろう、と。




 ラピスは太陽を見たことがなかった。物心ついた時から一度たりとて閉塞的で無味乾燥なラボより外に出ることはなく、日々をただ言われるままに過ごした。否──言われることさえなく、ただ彼女の周りにいた人間は、己の望むままに彼女を動かした。白い服を着た彼らがラピス本人の意思を確認することは当然なく、また、それを悪いとも不思議だとも思わずに、ラピスは日々を過ごしていた。
 決まった時間に目を醒まし、決まった時間に決められた場所へ行き、そこで様々な実験をし、それが終わればまた、決まった時間に眠りにつく。
 その繰り返し。いつから始まり、いつ終わるとも知れない日常。
 ラボには多くの子供たちがいた。ラピスと同じように、自分の存在が果たして何を為しているかなど考えもせず、日々をただ動いている子供たち。
 ラピスはその子供たちの名前を知らなかった。知ろうとも思わなかった。心を誰かに向け、通わせる術を持っていなかった。
 ラピスを含めた子供たちの誰もがそうだった。何かに興味を持ち、それを知ろうとするなどということを考えもしなかった。
 彼もいて、彼女もいた。黒い髪、銀の髪、赤い髪、そしてラピスの桃色の髪。けれど瞳の色は皆同じ。
 皆が皆、何処かで生まれ、あるいは創り出されたのち、とある目的のためにラボに連れてこられていた。




 しばらくの間、ラピスは体を横にしたまま、何もせずただ呼吸だけに意識を向けていた。起きねばならない理由が見当たらなかったし、初めて訪れた自由な時間を全身で実感したかったのだ。10分──20分──30分。一言も発することなく、眼球さえ固定されたようにただ一点のみを見据えていた。上下する胸と、一定の間隔で繰り返される瞬きだけが、この時のラピスを生者と判断できる手段だった。
 そうしてようやく体を動かそうという段になり、シーツの中で両手を開閉してみた。すると、突如痺れるような熱がラピスを襲い、眉をひそめ、全身に疼痛が張り付いていることに気付いた。違和感──腕や肩に、包帯が巻かれている。
 ラピスはそこで初めて、自分に何が起こったのかを考えてみる気になった。
 そう。いつだって、ラピスに疑問を投げかけるのは痛みだった。流されるままに生きてきたラピスを躓かせるのは、痛いという衝動だったのだ。




 ある日、いつものように決められた部屋へと移動している際に、ラピスは転んだ。何かに足を引っ掛けた訳でもなく、ただバランスを崩してしまったというだけ。だが受身も取れず、手で体を庇うということもできなかったために、清潔で平坦な廊下でも膝を擦り剥いてしまった。
 一緒に行動していた子供たちは、そんなラピスに目を向けることもなく、誰一人足を止めなかった。誰もがラピスを置いて先へと進んだ。ラピスもまた、腹を立てるでもなく立ち上がろうとし──それが上手くできないことに気付いた。
 膝を見ると、薄い赤がじんわりと滲んでいた。じくじくという熱が足を止めている。動かそうとすると、その赤い色を中心とした部分から痺れが走った。
 この赤い何かが、自分を邪魔している──そう考えたラピスは、手で膝を拭った。途端、前以上の痺れが走り、ラピスは呻いた。薄い赤は、鮮やかな赤へと変わっていた。
 学習能力の高い子供であるラピスは、同じことを繰り返そうとはしなかった。無造作に手で触れれば、より悪化するということを学んだのだ。
 だからといって、どうすればいいのかはわからなかった。立って、歩かなければ部屋に行けない。だがそれが上手くいかない。膝に付着している赤い何かのせいであるとは思うのに、それもまた、自分ではどうにもできない。
 ふと前方へと視線を向ける。子供たちは皆、既にその姿を消していた。周囲を見回しても、誰もいなかった。
 その時初めて、ラピスの心に不安という翳りが混じった。





 ラピスの表情は動かなかったが、その内心には困惑が渦巻いていた。
 似たような状況を一度経験している。気が付いたら知らない場所にいて、其処ではやはり白い服を着た──顔は知らないものに変わっていたけれど──人間が大勢いて、ラピスがやることも以前より少し不快なものになっていたくらいで、大きな変化はなかった。
 今回もまたそうなのだろうか。知らない人間がいて、やることは同じ、しかしさらに不快なものへと?
 しかし、そうだとしてもラピスにできることはない。抵抗するとか、不満を伝えるとか、そうした自己主張をラピスは知らなかった。ただ漠然と、そしてより一段と、歩みが重くなるだけだ。やがて力尽き、足が止まってしまうようになったなら、それが消滅の時なのだろう。
 ラピスは少しずつ思い出した。そう、いつの頃からか、自分の行く末を思うと視界が暗くなるのを感じた。それまで流れるまま流されるまま過ごしてきた日常が、次第に自分を押し潰していくような"不安"。今のままではいけないという焦燥。
 そういったものが、ラピスに自覚させないまま潜み続けていた。




 揺れる。震える。崩れる。白い壁の世界、白く無垢な心とともに。
 かつてラピスを困らせた、あの赤い何かが全てを染める。白い衣服に、白く煌めく刃が突き刺さる。そして、赤い飛沫。
 その時のラピスは動けなかった。他の子供たちと同じように、満たされた培養槽の中でまどろんでいたからだ。辺りが騒音に満ち、生まれて初めて悲鳴を聴いた。声は遠く、水とガラスで隔離されたラピスの耳をくすぐるだけに留めたけれども、思い瞼を開かせるきっかけにはなった。
 目の前で、ずるりと崩れ落ちる人間がいた。その奥には、赤い眼の──

 ラピスの口から、泡が漏れた。





 それからだ。ああ、ラピスラズリの世界に痛みが満ちたのはそれからだ。
 記憶に残るのはそこまで。あの赤い眼──あれがラピスの全てを破壊した。淀んだ色の中に限りない愉悦を込めてラピスを覗き込んだ、あの眼を見た瞬間に意識が途絶えた。
 そして──そして。何が起こったのだったろう。だが、ラピスはシーツを掻き抱いて震えた。痛みなど忘れたように体を丸め、かちかちと鳴る歯の音を聴いた。
 あの後のことなど憶えていない。あの赤い眼を見た、ただそれだけのことでラピスのそれまでが完全に屈服した。恐怖だった。少しずつ色がつき始めていた名前のない感情が、爆発的な恐怖でそのまま弾け飛んだのだ。
 しばらくの間、ラピスはそうして震えていた。しかし不意に、自分が何故こんなことを考えていられるのかという疑問を抱き始めた。

 ──今、自分は何故、思考することができるのか? 何故、記憶を探り、思い出すという行為が可能なのか?

 何も知らず、何も考えなければればと、いつか望んだ筈だった。そしてそれは叶えられた。決して望んだ筈ではない形で。
 だが、今のラピスは明らかに思考していた。言われた通りに動くのではなく、決められた範囲の中で判断するのでもなく、自由に考えることができていた。
 それに気付いた時、ラピスの空洞部分にとても力強い歯車がかちりと嵌り、全身の回路を活性化させて動きだした。




 テンカワアキトの全身に突如としてナノマシンの奔流が走り、定期検診のためにデータをとっていたイネス・フレサンジュは顔には出さず驚愕した。
 明滅する光は今までになく不規則に、それでいて何か大きな法則の元に動いているように見えた。ただ無造作に暴れているのではなく、確固たる目的のもとに制御されるナノマシン。次第に輝きを増し、統制されたラインを走り出す。
 アキトの体から汗が噴きだし、心臓が血液を送りだす音が体内で轟く。脳天から爪先までが昂揚し、壊れたはずの体に、確かな活力が満ちる。
 全身を焼く憎悪の焔ではない、生命の躍動。アキトは今、それを感じていた。
「……熱いな」
 ぽつりとこぼれたアキトの言葉。その中には、隠しきれない歓喜の衝動が混じっていた。
「わかるのね? 今、何が起こっているのか」
「ああ。この体が軽いと思えるのは久しぶりだ」
 アキトの表情を見て、イネスもまた察した。

 度重なる人体実験によって身体機能の悉くを喪失したがゆえに、最良でも最善でもなく、最短の道を選ばざるをえないアキト。
 いつまで保つかもわからない壊れた体を引き摺って、アキトは「死ぬまでには使い切る」とまで言い切った。
 その覚悟に祝福を与える者が、目覚めたのだ。

「どうやら俺にも気付いたようだ。顔くらいは見せに行ったほうがいいだろうな」






□□□






 顔のそれを外してほしい。

 その男が現れたとき、ラピスが最初に要求したのはそんなことだった。全身を黒一色の装束で包んだ男は、一瞬だけ口元を曲げたものの、その通りにした。
 そうして出てきたのは、髪と同じくややブラウンの混じった色。
 白い服でも、赤い眼でもない。たったそれだけのことで、ラピスは満足した。
「俺はテンカワアキト。君は? 名前を言えるか?」
 すぐにまたバイザーで目元を隠しながら、男──アキトは言った。その声は硬く、聞く者によっては感情が篭っていないようにも思えるだろう機械的な冷たさがあったが、ラピスがそれを不快に思うことはなかった。
 ラピスが答えると、アキトはまたも、口元を曲げた。
「ラピスラズリ、か。わかった。いい名前だが……返答は口に出してくれないか」
 突如としてアキトの頭の中に浮き出した言葉の羅列。それは他者には理解できない、アストラルリンクという不可視の絆によるものだった。



 二人の人間が、感覚・思考・精神を共有するという現象。ラピスはそれをすんなりと受け入れた。
 体の奥底から湧き上がり、全身を末端まで満たしている衝動。頭の中を熱湯で洗い流されているような感覚。私は溶けているんだ、とラピスは思った。目の前にいる彼──アキトと混ざり合い、私たちは一度、同じモノになる。そうして、一つの意志で動く、異なる二つの器となる。
 そうだ。ラピスは今、自分を動かしている力の正体を知った。胸の奥、灼熱を吹き散らして駆動する、この機関の持ち主はアキトだ。眼球の裏側が焦げ付きそうな程に強い想いの塊が、心臓の鼓動に合わせて膨れ上がる。だがそれは、決してラピスの未発達な精神を灼き潰しはしなかった。
 "あの時"以来動きを止めていたラピスの自我。か細いそれがまた、アキトの意思に背を押されながら動き出す。



「君に手伝って欲しいことがある──」
 そして、アキトは自分の目的を語った。火星の後継者を名乗る者たちの妨害。北辰という暗殺者の抹殺。己の妻の奪還。そのために、ラピスの能力を利用するのだと冷徹に言い放った。ラピスの役目は、実験により衰え、喪失したアキトの身体機能を補い、戦場に立たせることだ──と。
 ラピスは衝撃を受けることもなく、ただ不思議に思った。それならば、自分はただここで眠っているだけでも役目を果たせることになる。何処にいても、何をしていても、この繋がりが消えることはないのだと、ラピスは本能的に理解していた。IFS強化体質者にとって、全身を巡るナノマシンはDNAに刻まれた情報のごとく深く根を張るものだからだ。
「それだけ?」
 そう口にしてから、ラピスは驚いた。今まではただ言われたことに頷いていただけの筈の自分が、何故突然こんなことを言ったのだろう、と。
「ああ。俺が君に望むのは、それだけだ」
 ここで保護を受けながら、好きなように過ごしていてくれればいい──アキトはそう答えて、沈黙した。
 数分間、壁にかけられた時計の針が動く音だけが響いた。アキトは立ち去ろうとはせず、ラピスの意思を待ち続けているように不動を守っていた。

「……イヤ、と言ったらどうなるの?」
 ラピスの声は震えていた。だがそれは恐怖からではなく、抑えきれぬ興味と、期待から来るものだった。
「考慮はする。他にいい方法が見つかれば、それを使うことになるだろう」
「そうすると、私はどうなるの?」
「リンクを切断することになる。それが君にとって実害があるかどうかは、俺にはわからない」
 ラピスは驚いて首を横に振った。リンクを切る。それはつまり、また何も考えられなくなるということだ。そんなのは嫌だ、とラピスは思った。
「なら、それはいい。……私には何ができるの?」
「周りの誰かに言えば、大概のことは聞いてもらえるだろう」
「何か、したほうがいいことはあるの?」
「そうだな……外で遊ぶとか、本を読むとか……特に難しいことはないと思う。興味があれば、何でもやってみればいい」
 ラピスは頭を捻ったが、全く思いつかなかった。だが、外に出るというのはいいかもしれないな、と頭の隅に置いた。
 自分の意思。ラピスは慣れないそれの扱いに苦心した。何ができるか、何が許されるのか、その境界はまるで未知のものだった。しかし、自分の意思を誰かに伝え、それを叶えてもらえるというのは、とても心地よいものなのかもしれないとラピスは思った。
 だからラピスは、素直な疑問を口にした。
「アキトは何故、そんなことをするの?」






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