さしたる理由はない。
 強いて言うならば、それくらいしかやることがなかった。

「助けてもらっておいて何もしないんじゃ座りが悪い。わたしに手伝えることって、ないか」
 起きて来ないと思ったら、一人でそんなことを考えていたらしい。
 自分の名前さえも忘れた、記憶喪失の"彼女"の言葉に、テンカワアキトとラピスラズリの両名は揃って考え込む羽目となる。
 今日は仕事が入っていた。二人の立場上堅気の職には就けず、いわゆる裏の稼業だ。発見された時の装備を考えれば"彼女"もまたそういった方面で生きてきたことがわかるが、片棒を担がせるには不安要素が大きすぎる。
「……まあ、またの機会にな。今日は留守番してろ」
「そうか……わかった」
 声には少々落胆の色が混じっていたが、"彼女"はすんなり引っ込んだ。流石に自分が無茶なことを言っていると解っていたのだろう。"彼女"自身、自分に何ができるのか、何を得手として、何を不得手とするのか全く把握できていないのだ。まずは、失われたものを少しでも取り戻していく必要がある。
「外にさえ出なければ、別に何しててもいいよ」
 というラピスの言葉はあったが、最低限の礼儀というものを念頭におくと、殆ど何も知らない相手の住処で出来ることなどたかが知れている。精々寝て過ごすか、当たり障りのない書物を手に取るくらいである。結局、"彼女"にとっては自分にあまり学がないことを知った程度の収穫だった。
 "彼女"は次に、掃除でもしようかと思い立った。住人の性格上か、あまり家具は多くないが、こまめに片付けられているわけでもなさそうだ。そもそもそういったことに二人とも無頓着なのだろう。雨露がしのげればいい、必要な時にすぐ手が届けばいい、見苦しくない程度ならいい。そんな思考が透けて見える、殺風景でありながら生活臭漂う家だ。
 それは"彼女"にとっても性に合う、有り体に言えば居心地のいい空間ではあったが、床を掃いて雑巾をかけるくらいなら構わないだろうと判断する。短時間で掃除用具の発見に成功し、よし、と意気込んだ。

 気が付けば、数時間が経過していた。
 元々凝り性だったのか、あれもこれもとやっているうちにスイッチが入り、洗い物や棚の整理、果てはゴミの分別まで手を伸ばしていた。これは少しやりすぎてしまったかもしれないと少々反省をし、そこで"彼女"は自分が空腹なことに気付いた。
 そして、"彼女"は二人が何時頃帰ってくるのか聞いていなかった。特に何も言わなかったということはそう遅くならないということなのか、それとも忘れていたのかだろう。後者の可能性が高いな、と睨む。しかし、二人のうち片方が同じ状況に立たされたのなら遠慮する必要などないのだし、突如乱入してきた異分子のことにまで気が回らなくてもおかしくはない。
 ──事後承諾になるが、後できちんと謝っておこう。
 そう頭に刻み込んで、"彼女"は冷蔵庫を開けた。







Bystander


2:寂寞の花








「名前? ……ああ、彼女の」
「そう。どんなのがいいかな」
 地球製であるためIFSを搭載していない、走行中の乗用車の中で、ハンドルを握るアキトと助手席のラピスの会話が静かに交わされている。
「とはいってもな。本人の希望を聞いたほうがいいんじゃないか」
「でも普通、自分の名前は選べないものでしょ?」
「それはそうだが」
 ラピスは手持ち無沙汰なのか、ルービックキューブを何気なく弄っている。ぼんやりとした表情で、その手順も出鱈目だ。
「お前はどう呼びたいんだ?」
 不意に聞こえたアキトの言葉に、ラピスは不思議そうな顔をした。
「私?」
「名前は大事なものだ。人生の最初に与えられて、人生の終わりにまで持っていける宝物。だから、名前には願いが必要だ」
 ラピスはキューブを弄る手を止めた。
 バックミラーに後続車が映っているのが見えた。アキトがアクセルを強く踏み、車は加速した。
「どんな風に生きて欲しいか。どんな人間になって欲しいか。名は体を現すって言葉もある」
「私が決めていいの?」
 ブレーキが踏まれ、車内にぐん、と重圧がかかる。それは一瞬で終わり、アキトがハンドルを切った。タイヤが煙を巻き上げて軋む。車は急激に方向転換し、更に加速した。
「見つけたのはお前だからな」
「そっか」
 ミラーに映る後続車の窓から、あからさまな黒服の男が頭と腕を出しているのが見えた。手には銃が握られている。
 アキトは車を左右に揺らしながら、法定速度を無視して走らせた。
「そうなんだ……ふーん」
 ラピスが助手席の窓を少しだけ開け、前を向いたままキューブを外に放り投げた。キューブは地面を転がり、黒服の乗る車が反射的にそれを避けようとする。
 その時、突然キューブから閃光が漏れた。よく見れば、色が揃っていることがわかったかもしれない。
 衝撃と、破壊音。玩具に仕込まれた爆弾をくらい、後続車は左の前輪を吹っ飛ばされて転倒した。

 アキトは後ろを振り返りもせず、速度を落とした。そして、ラピスは薄く笑みを浮かべながらも困惑していた。
「どんなのがいいかなあ──」
 目を瞑り、顎を上げて思案顔。
 背後の危機より、そちらのほうが余程重要事だとでも言うように。






□□□






 "彼女"は自分の心が充実しているのを感じていた。
 包丁を持ち、野菜を刻む。ガスコンロの上には大きな鍋が乗せられ、なみなみと張った湯の中でパスタが踊っている。茹でる前に鍋に少しだけ塩を振っておくのがコツ。トン、トンという小気味いい音と、ぐらぐらという煮立つ音。それら調理場の空気が、"彼女"にとってはえもいわれぬ至福を呼び起こす。
 自分に何ができるのかわからない現状と冷蔵庫の中身を検討した結果、それ程難易度が高くないと思われるものに挑戦してみたのだが、身体に染み付いてしまったらしきものが実に軽快に"彼女"を動かす。ふと気付けば、無意識に鼻歌まで吟じていた。
 わたしは思ったより家庭的な人間みたいだ、と"彼女"は思った。そして、黒尽くめの装束を来た自分がキッチンに立っている姿を想像し、そのあまりの違和感に吹き出してしまった。
 料理をすることで緊張感が薄れ、張り詰めていたものが和らいだような気がした。そうすると、アキトとラピス、あの二人のことが頭にのぼる。好物はなんだろうか。嫌いな物はあるのだろうか。帰ってきた時のために食事を用意していたら、喜んでもらえるだろうか。そうした思考に浮き立つことが、自分にとってはとても自然なのだと受け入れられる。記憶の欠落など、この満足感だけでお釣りが来ようというものだ。
 出来上がったナポリタンを盛り付け、テーブルに置く。
「いただきます」
 他の何を差し置いても、これだけはやらなければならない。

 食事を終え、使った食器を洗って片付ける。
 ソファに背を預けて、周囲を見回す。念入りに掃除したことで、どことなく雰囲気が変わったように思える。全体に漂っていた生ぬるい怠惰な空気が消え、照明の弱さや重い色合いでまとまった家具類のせいか、冷徹さと峻厳さが滲んでいる。それが良いことなのかどうかの判別まではできないが、それなりに満足できる結果だ。
 その達成感をひとしきり堪能した後、"彼女"はまた思案する。さて、これからどうしようか、と。
 できることはやった。しばしの休息と称して惰眠を貪ることも考えたが、生憎料理中の興奮が冷めやらず、目は完璧に冴えてしまっている。今布団に潜っても辛いだけだろう。何か手頃に時間を潰せるようなものはないだろうか……
 その時、壁にかけられた時計が重々しく鳴り響いた。それがきっかけとなり、"彼女"は冷水を浴びたような心地に陥る。
 
 ──はて。わたしは何故、当たり前のように適応してるんだ?

 己の境遇に思いを馳せる。焦っても仕様のないことではあるが、さりとてのんびり構えていられる状況ではない筈だ。そう、まずは現状を確認してみる必要がある。

 何故か黒尽くめの装束を着込んだわたしは、今いるこの家──そういえば住所はどの辺りなのだろう──の近くで倒れている所を発見され、介抱を受けた。およそ二日間眠り続け、目を醒ました時には自分の名前さえ思い出せないという、重度の記憶障害に陥っていた。手掛かりは『ナデシコ』という単語だけ。
 幸い、話を聞いた二人はわたしを放り出すようなことをせず、美味しい食事を用意してくれた。その後、就寝。
 そして今日、二人は仕事があると言って出かけ、わたしは留守番を命じられた。少し本を読んで、すぐにギブアップ。掃除に時間を忘れ、料理を始めて──
 そう、料理だ。エプロンを付けた時の安息感と使命感。包丁を握った時の高揚感と充実感。料理というものがわたしにとって非常に大切な何かであったことは間違いない。
 今あるキーワードは、『ナデシコ』と『料理』。そして、発見された当時の格好である、『機能的に必要ないはずの装備』と『身体に合っていないのに何故か手に馴染む銃』。
 そして、彼──アキトの言った、『誰かの"影"であるという推論』。
 ……装備や銃のことは、恐らく考えても答えは出せまい。"影"のこともあるし、確かなものは精々、料理関連くらいだろう。『ナデシコ』は一体どこからどう考えを進めていくかの見当が掴めない。

 わたしは何者で、何処から来たのか。記憶がないのは何故だろう。家族はいたのだろうか。友人や恋人や、そういった相手がいたのだろうか。
 何もかもが根こそぎ消去され、どこから手を伸ばしていいのかさえわからない。もしかしたら、絶対に忘れてはいけないようなことを忘れてしまっているのではないかという不安。
 それは例えば、やらなければならない仕事とか、果たさなければならない約束とか、──償わなくてはならない、罪とか。
 ずしり、と見えない重圧が圧し掛かる。鏡に映るわたしは17、8くらいの年齢で、それだけ生きていれば何かしら積み重ねたものがある筈だ。そういったものを全て放り出すなんてことになるのかもしれない。
 ならば行動を起こすべきか。だが、どうする? この近辺を歩き、道すがら「貴方、わたしを知ってますか?」とでも聞いて回るのか? どう考えても変な人間だ。怪しげな勧誘と思われても仕方がない。それに、銃を所持していた以上わたしは一般人には忌避される人種であったと予想できる。そも、あのバイザーで顔を隠していたのは何故だ。知られてはいけない、隠れていなければならない人間だったからではないか。迂闊に行動し、唐突に御用なんてことも──DNA照会も、やめておいたほうが無難かもしれない。顔を出した役所に自分が写っている指名手配の張り紙があるなんて可能性が、否定しきれない。
「……ふう。やっぱり、一人だと考えも暗くなるな」
 内に溜まり始めた鬱屈を吐き出すため、敢えて口に乗せて呟いた。






□□□






 真夏の長い昼が終わり、空が茜色から紫へと変じていく頃に、アキトとラピスは帰宅した。
「うわ、なんだか綺麗になってない?」
 木目の床が艶めき、埃っぽさも見受けられなくなった室内が目に入り、ラピスは驚きと共に言った。
「ん……?」
 同じく、無表情ながらも口元に感嘆の色合いを忍ばせていたアキトが、テーブルの上にある紙切れに目を留めた。
 小さな白地のメモ用紙に、ボールペンで書いたらしき文字が走っている。

『お風呂借りてます』

「……いつからだ?」
 そこはかとなく感じる疑問が素直に口にのぼった。
 そしてその時、自分たちがいつ帰るのかなどの、本来伝えておくべきことを伝えていなかった事実を思い出した。
 普段から二人で生活していたため、アキトとラピスは気心が知れており、互いに遠慮というものがない。精神を共有する『アストラルリンク』によって、必要とあらば距離に関係なく意思の伝達さえ可能であり、その気になれば一切の会話なしでもやっていくことができる。それをしないのは、ある種の、孤独を埋める術かもしれなかった。誰かと会話し、意思を言葉で伝え、意図を探る。そうしたコミュニケーションを無用にしたくはなかったのだ。
 しかし、やはり二人は『同じ』である。大体においてその性質は似通っているし、片方が何か行動を起こせばもう片方がそれを支援するのが当然であるという認識がある。基本的に、対立することがない。自分の考えは当然相手にも伝わっている、という思いが無意識に根付いていたのだと、アキトは自省した。
 
 その後、荷物を片付け、仕事の内容をまとめた書類の作成などに時間を潰し、ソファの上に横たわり身体を休めているうち、時計の針が2周した。
「流石に遅くないか」
 入浴時間に個人差があるのはわかるが、それにしたってこれはない。一度、もうとっくに上がって部屋で休んでいるのかと思ったが、"彼女"の寝室に当てられている部屋はもぬけのからであったと確認されている。
 ふと、ラピスは気付いた。
「もしかして、着替えがなくて出れないとか」
「……適当に見繕って、持って行ってみてくれないか」
 果たして、ラピスは浴槽の中でぐったりと倒れこむ"彼女"を発見した。

「今度、服も買ってくるよ」
「……面目ない」
 ラピスに団扇で扇がれながら、"彼女"は弱々しく返した。現在は胸元を開いた替えのYシャツに身を包み、ソファに寝かされている状態だ。
 最初、ラピスは自分の服を貸そうとしたが、ラピスはかなり小柄なほうだったので"彼女"には少々きつい。よって、結局アキトの服を借りるしかないという状態に陥った。今度は大きすぎるのだが、着れないことはない。
「着替えを用意してなかったことに、風呂の中で気付いてな……」
 その時は「出てから探せばいいや」と思っていたのだが、タイミング悪く二人が帰宅してきたために機会を失った、と"彼女"は説明した。
「別に、ラピスを呼べばよかったろう」
 アキトは呆れた調子で言った。一応"彼女"のほうには背を向けて、ハードカバーの書籍に目を落としている。
「見栄ってものがあるんだ。なんというか、これ以上醜態を晒したくなかった」
「それでのぼせてたら、意味無いけどね」
 ちなみにあのメモは、入浴中に二人が帰宅──つまり今回のケース──という事態を想定して用意していたものだったそうで、尚更無様だ。
 しばらくの間"彼女"は呻いていたが、やがて落ち着いたのか、身を起こした。
「──ッと、そうだ。二人に聞きたいことがあったんだ」
「なんだ?」
 "彼女"はしばし逡巡したあと、切り出した。
「昨日言ってた、わたしが誰かの"影"だったんじゃないかってことなんだけど。全身黒尽くめでマントやらスーツやらを着た女って、その、こっちの業界で"そういう奴"はいるのか?」

 核心。アキトとラピスはほんの一瞬だけ、硬直した。
 "彼女"はそれに気付かない。まくし立てるように、続ける。

「わたしが持ってる手掛かりで、一番重要なことじゃないかと思う。噂とか……そんなのでもいいんだ。そいつは目と耳が不自由で、多分背格好はわたしと同じくらいで、ごついリボルバーを扱える──手が大きいのかな? ひょっとしたら義手なのかもしれない。ともかく、そういう女に、心当たりはないか? そいつのことがわかれば、わたしのことにも繋がるんじゃないかって、まあ、ただの希望的観測なんだけど──」
「──悪いが、そんな"女"のことは、聞いた憶えがない」
 アキトの声が、遮断するように響いた。
 ぴたり、と"彼女"は止まった。
「そう……か」
 隠しようのない失望を伴い、"彼女"は俯いた。
 "彼女"にとっては、かすかながらも確かな光明だったのかもしれない。自分が何者であるか。それは、様々な形で求められる問いだ。その答えを探すために生きる者、仮初であれ答えを得てからでないと前に進めない者。動機はやはり人により違えど、多くの人間が、その疑問を抱えている。"彼女"のそれは、ことさらに大きいものだろう。
「……すまないな」
「いや、いいんだ。考えてみれば、そんな奴を知ってるならわざわざ家に運んだりしないだろうし」
 笑顔を作ろうとしても上手くいかない。そんな自分に気付いているのかいないのか、どちらにせよ痛々しい、とアキトは思った。

 "彼女"は今、ひどく不安定だ。自分が何者かわからない。周囲に適応できるかどうかも危うい。その術がまるで思いつかない。生まれたばかりの幼子が両親に捨てられてしまったような、自身を取り巻く世界が全て真っ暗に落ち込んだような孤独。あらゆる平衡を失った、足場の不確かな綱渡り。
 これだ、と思う。ボソンジャンプによって過去に跳ばされた逆行者。それは、かくも孤独なのだ。
 自分が"いてはいけない"はずの世界。存在そのものが許されざる異分子。拒絶されるということ。今でさえこれ程に恐怖している"彼女"がそのことを知ったならば、反応は推して知れる。
 アキトはラピスに目配せした。

 ラピスは"彼女"の肩を両手で抑え、視線を合わせる。金色の双眸が、真摯な光を込めて"彼女"を射抜いた。
 そして、ゆっくりと、一言ずつ力を込めて、言った。
「なら──貴女に名前をあげるよ」



「エリカ。貴女はエリカ。『寂寞』を意味する花の名前」

 寂寞。それは静かであり、孤独であるということ。

「アキトと一緒に考えたんだけどね。貴女はいずれ、記憶を取り戻せるはず。私たちも、手伝うよ」

 エリカ。それはアキトにとっての妻と、ラピスにとっての母の名を合わせた、祈り。



「貴女が自分の名を思い出した時。──その時に、"エリカ"を捨てるといい。それまでは、我慢してね」

 そして"彼女"──エリカは、一度だけ頷いた。





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